いやしの道協会の治療法である万病一風的治療は、横田観風が自身の闘病体験、数十年の臨床経験、禅の修行により悟得した世界を基に、吉益東洞の「万病一毒」、葦原英俊の「万病一邪」から多大な示唆を得て、創成したものです。
吉益東洞(江戸期の古方派の大家)
葦原英俊(江戸期の奥医師で鍼の名人)
その眼目は「寒熱虚実の立体的分布を見極め、それを調整し、病の原因となる邪気を取り去り、毒の排出をうながすこと」です。
下記の「万病一風的治療の特徴」と「日本鍼灸の特徴」もお読みください。万病一風的治療のおおよそがイメージできれば幸いです。
※ 以下『堀雅観.頚上肢痛の診察法と治療法 ~いやしの道の万病一風的治療を柱として~.週刊あはきワールド.2021年8月』より抜粋
万病一風的治療では、患者の生命状態を邪毒・寒熱虚実の立体的分布としてとらえます。いやしの道では腹診を重視していますが、これによって邪毒・寒熱虚実の在り様を手の感覚で直接とらえていきます。多くの場合、寒熱虚実の異常が現れている部分には毒(水毒、血毒など)が存在します。また毒には沈静化した毒と毒性化増大した毒があり、その見極めも重要です。これらに注目して病態把握と治療を行っていきます。
いやしの道では『傷寒論』を必読としています。『傷寒論』には数多くの薬方と、それに対応する病証が記されています。この病証を邪毒・寒熱虚実という観点でとらえると、万病に適用できる原理原則が見いだせます。
『鍼道発秘』には葦原英俊の治療法が記されています。いやしの道では、ここから鍼治療の原理原則を学び、様々な愁訴・疾患の治療に活用しています。また『霊枢・経脈編』に基づいた経脈流注を頭に入れ、引き鍼(後述)における経脈選択や、邪の移動ルートをイメージする際に活かします。
患者の体表には、その時々の生命状態に応じた「生きたツボ」が現れます。これは、わずかな施術で大きな効果が得られるツボということです。寒熱虚実の異常部位や、そこと関連する経脈上に現れます。それが探す際の目安になりますが、最終的には手の感覚で見つけます。そこに鍼灸で補瀉を施し、寒熱虚実を調整します。
基本的に置鍼はせず、主に単刺、引き鍼、散鍼で治療します。引き鍼とは手足の生きたツボに鍼を当て、胸中の邪熱を抜いたり、腹中の虚寒を温めたりする手技です。治療が成功すると、邪気が去って真気が巡るようになり、自然治癒力が充分に発揮されるようになります。それにともなって愁訴が改善していきます。
自然治癒力が高まると、毒を排出する力も高まります。毒が動く際、一時的に症状が悪化することがありますが、毒が排出された後には大幅に改善します。このような反応を瞑眩と呼んでいます。治療後に排尿、排便し、スッキリすることも穏やかな瞑眩です。
万病一風的治療は西洋医学と矛盾なく両立できます。寒熱虚実の立体的分布とは、言わば人体のエネルギーレベルでの病態です。一方、西洋医学的疾患は物質レベルでの病態です。両者を重ねてイメージすることで、多角的で精度の高い病態把握ができます。
患者自身に養生法を実践してもらうことを重視しています。現在の患者の状態は、患者のこれまでの生き方の結果です。だとすれば、原因を改めなくては根本的な解決になりません。
これまでの生き方を決めてきたのは、その人の心です。生き方を変えるためには、心の在り方を変える必要があります。治療者との関わりが、そのきっかけになることもあります。いやしの道ではそれを「見えざる一鍼」と表現しています。治療者の言葉が見えざる一鍼になることもあれば、非言語的なやり取りが見えざる一鍼になることもあります。治療者の人間性も含め、鍼灸施術以外の全ての要素が見えざる一鍼になり得ます。
横田観風先生は「口先だけでなく、親切ぶった偽善的なものでなく、内側から慈しみがほとばしるものならば、たとえ手段は何であろうとも必ず心に響き、良い方へ転回するはずである。これこそが見えざる一鍼なのだ」と述べています。
※ 以下『大浦慈観.「日本鍼灸」の特徴と真髄.北米東洋医学誌.2007年11月発刊号』より抜粋
私は日本の鍼灸に興味を持つ以前、1988年に北京の病院にある鍼灸部門に留学し、鍼灸の手ほどきを受けた。それゆえ、中国鍼灸の良さや凄さも見て来たつもりでいる。中医学の特徴は、すべて「弁証論治」に基づいて、理路整然と施術が施されることである。それゆえ問診が最も重視される。
これに対し「日本鍼灸」はどうかと言うと、感覚的なものを重視する傾向がある。脈診・腹診・切経もそうであったが、施術の方針を立てるにおいても「目の付け所」といった外国人から見れば極めて曖昧だが、日本人にとっては的確かつ単純化された治療目標を設定する。
もちろん、五臓のどこに不調があるか、何経の変動かといった最低限の「証立て」は行うものの、そこから先は「技の世界」として経験の中で培われる「観の目」が重視されるのである。それゆえ、弁証から治法・配穴・補瀉術の選択まで至る中国鍼灸からは、「理論が無い」と批判される所以である。
では「目の付け所」や「観の目」とは言っても、何を拠り所としているのかと言うと、邪気や毒のあり様や、気の偏在や変動を察することであり、治法・配穴・手技術はそれに基づいて自ずから流れるように施されねばならない。臨床の実事に着いて熟練を貴ぶのである。
観世流の能の舞台表現に「序・破・急」というものがある。導入部の極めて静かな曲の序の舞に始まり、展開部では動的変化に富んだ破の舞に転化し、終結部では短く躍動的な急の舞で盛り上げ、余韻を残しながら再び静寂へと戻ってゆく。能に限らず、歌舞伎・浄瑠璃・楽曲・講談など、日本の伝統文化には速度や演出の三区分として「序・破・急」がある。
日本の伝統的鍼灸もまた、この「序・破・急」を重視していた。それは「捻り」などの一つの技の内にも「序破急」があると同時に、治療という場面全体の中にも「序破急」を意識していたのである。
もともと日本人は議論や理屈を嫌う傾向がある。鍼灸という場における、術者と患者との「気の遣り取り」を重視し、そこに「癒し」と「美」を表現しようとしていたのかもしれない。「日本鍼灸」の世界は、治療であると同時に「心身の癒し」であり、「芸能」の世界に近いと言える。